2009年12月17日

火災旋風

火災旋風(かさいせんぷう)とは、地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。

個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。 火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。

九州
トライアスロン
インダストリアルデザイン
債券
沖縄
セパタクロー

上場
試写会
翻訳
過去、1923年の大正関東大震災で約4万人が焼死した本所被服廠跡をはじめ多数発生しており、1943年のハンブルク空襲、1945年のドレスデン大空襲、東京大空襲、広島・長崎の原子爆弾投下などの大規模な空襲によっても発生が確認されている。近年では、カリフォルニア州で発生した大規模な山火事に伴い発生した小規模の火柱が映像として捉えられ、メディアにも取り上げられた。

東京湾を震源とする南関東直下地震が、夕方6時ごろに発生した場合、都内数千箇所で火災が起こると試算されている。風速15mの風が吹いていた場合、東京の住宅街・オフィスビル周辺などに巨大な火災旋風が発生するおそれがある。ただし、1923年の関東大震災は、夏場の昼に地震が起き、火災旋風も発生している。火災が密集すれば季節に関係なく発生する可能性がある。

2009年12月01日

九尾の狐

九尾の狐(きゅうびのきつね)とは、中国の妖怪、9本の尻尾をもつ妖狐。つまり、狐の妖怪である。 九尾の妖狐、九尾狐(きゅうびこ)、単純に九尾、または複数の尾をもつ狐の総称として、尾裂狐(オサキ)とも。 万単位の年月を生きた古狐が化生したものだともいわれ、狐を素材にした空想の化け物の中で最高位の存在であるとされる。
紀元前2世紀から紀元3世紀頃にかけて中国で著された地理書『山海経』には実在とは思えぬ動植物の項が並んでいるが、その一書である南山経次一経の中に「有獣焉、其状如狐而九尾、其音如嬰児、能食人。食者不蠱。」とあるのが、九尾の狐に関する最初の記述であるとされる。 しかしその後、中国の各王朝の史書に、九尾の狐はしばしば瑞獣としてその姿を見せる。 「周書」や「太平広記」など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であると語られ、その場合は平安な世の中を迎える吉兆であり、幸福をもたらす象徴として描かれる。 またいっぽうでは、殷の王「帝辛(紂王)」を誘惑して国を滅亡させる妲己や南天竺耶竭陀国(古代インド西域)の王子・班足太子の妃になった華陽夫人、御伽草子「玉藻の草紙」に登場する玉藻前を例とするように九尾の狐は絶世の美女へ化身するという話も多い。
ポリマー
ロデオ
整形外科学
両生類
サッカー
タップダンス
労働組合
中国地方
あしあと君観光経済
アルテミス女神

中国の伝説が朝鮮半島にも伝わっており、韓国では「九尾狐(クミホ)」と呼ぶ。 日本では、「玉藻前」すなわち白面金毛九尾の狐に関する伝説がことに有名であるが、これには江戸時代以降歌舞伎や人形浄瑠璃の題材としてよく採り上げられたことが大きい。これによって同伝説は広く庶民に浸透し、九尾の狐と言えば玉藻前、玉藻前と言えば九尾の狐を指す代名詞となった。

九尾の狐の姿は基本的に狐に9つの尻尾が生えた状態だが、近年の小説や漫画などの作品によって様々なバリエーションが存在する。これは九尾の狐が空想上の魔物であるがゆえに想像力を刺激された創作者によって気侭に表現された結果にすぎないわけだが、たとえば姿が人間ではあるが腰のあたりから9つの尻尾が生えていたり、狐の魂などが結集したグロテスクな九尾の狐も創作された。 一説には玉藻前、妲己、華陽夫人は同一人物とするものもある。

2009年11月27日

過去に導入したイージス艦やF-4EJ改など

日本では、過去に導入したイージス艦やF-4EJ改などの様に、あえて対地攻撃能力を省いた兵器を選択することで、周辺国からの緊張をまねかないように配慮した事がある。なお、こういった事情が国内外に100%理解されているかは不明である。 この例のように日本だけに限らず多くの先進国では、採用される兵器が常に敵への加害性能やコストのみを考慮して採用されるとは限らず、過度に周囲の緊張を招くことで互いに軍備の拡張競争に入らない様に常に注意が払われている。

兵器ではないが、1980年代に行われたアメリカ陸軍のM1911A1の後継種(M9:9ミリ拳銃の意)のトライアルでは、欧米の各銃器メーカーが売り込みを開始した。後に四軍すべての制式拳銃採用計画へと変更した際はベレッタ社(イタリア)、SIG社(スイス)の2社が有力視され、SIG社の「SIG SAUER P226」が採用との見方が強かった。

試写会
翻訳
頭痛
おつまみ
フードテーマパーク
ラグビー
理学療法
鳥類
ダーツ
戯曲
だが、採用されたのはベレッタ社の「M92F」であった。この事態に「P226の製造が旧敵国の西ドイツの会社が行う為にM92Fが採用された」などという噂も囁かれたが、実際にはイタリアを含む地中海沿岸に対空ミサイル部隊を配置しようとしていたアメリカ政府が、反発が予想されたイタリア国民に対する懐柔を図ったためであった。しかも「M92F」は射撃をしているとスライドが割れて後方に飛んでくるという欠点が見つかり、特殊部隊などでは選定に漏れた「P226」を、海兵隊では信頼性が高かった「M1911A1」を好んでサイドアームとして使用しているという。

日本の航空自衛隊のFS-X(次期支援戦闘機:現在のF-2)国産開発に対する、対日貿易赤字などを理由としたアメリカ政府の圧力も有名である。

2009年11月13日

信長と官職

信長は尾張時代には上総介を自称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って備後守や三河守の官を得た父信秀とは対照的である。今川義元を破って後は尾張守を称している。

足利義昭を奉じて上洛した後も弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじている。しかし将軍足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇した。天正2年(1574年)に参議に任官して以降わずか3年で従二位右大臣に昇進している。これは武家としては源実朝以来の右大臣任官であり、彼以前に上位を占めた武家は平清盛・足利義満・義持・義教の4人しかいない。しかし天正6年(1578年)4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。
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この後二度にわたって信長の任官が問題となり、二度目となる天正10年(1582年)5月には武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって2つの説が存在している。これが三職推任問題である。信長の朝廷に対する姿勢を考える上で重要な問題であるが、信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような考えを持っていたかは不明である。

「対立説」…秋田、朝尾、今谷、藤木ら
信長が三職推任に明確に反応しなかったのは、朝廷離れの姿勢、もしくは朝廷への圧迫を示したものである。

2009年11月02日

船(ふね)とは海や湖、川などの水上において、おもに人や物を運般する目的で作られた乗物の総称である。船舶(せんぱく)とも表記され、水中を移動する潜水艦や潜水艇も含まれる。人力・帆走・原動機により水上および水中を移動する交通手段である。規模や用途の違いから「船・舟・槽・艦」などを使い分ける。

宇宙船や飛行船のように水上以外での乗り物も「船」と呼ばれ、ホバークラフトのようにエアクッションや表面効果を使用した船に近い乗り物も存在する。オートバイに取り付けられるサイドカー(側車)や、魚類の刺身を盛り付ける容器も形を表す言葉として「舟」が用いられる。また、水上機のフロートや飛行艇の艇体は「浮舟」(うきぶね)と表現する。いずれも本項目では扱わない。
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「船」と呼ぶためには水上で安定して浮かぶためのアルキメデスの原理によって得た浮力と共に復原性も備えた「船体」と、推進力(風力などの自然力、エンジンなどの動力)、針路を定める「舵」(かじ)の機能を備える必要がある。「オール」や「櫓」、「帆」は動力としてだけでなく舵としても使える。動力として内燃機関などのエンジンを使うか否かに関わらず、プロペラが1つの場合は舵が必要となる。

「舟」や「艇」は、いかだ以外の水上を移動する手漕ぎの乗り物を指し、「船」は「舟」よりも大きく手漕ぎ以外の移動力を備えたものを指す。「船舶」は船全般を指す。「艦」は軍艦の意味である。日本海軍では艦(艦の字義は装甲船の意)と書いて「フネ」と呼んだ。

2009年10月23日

破産

破産(はさん)

財産をすべて失うこと。
債務者が経済的に破綻して、弁済期にある債務の総債権者に対して債務を一般的・継続的に弁済することができない状態にあること。また、そのような状態にある場合に、裁判所が債務者の財産を包括的に管理・換価して、総債権者に公平に配分することを目的として行われる法的手続。破産手続。本項目では、破産法に定める破産手続について、解説する。
破産(はさん)は、債務者が経済的に破綻して、弁済期にある債務の総債権者に対して債務を一般的・継続的に弁済することができない状態にあることをいう。また、そのような状態にある場合に、裁判所が債務者の財産を包括的に管理・換価して、総債権者に公平に配分することを目的として行われる法的手続を指すこともある。破産手続。
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2004年(平成16年)6月2日に全面改正された破産法(平成16年法律第75号)が公布され、翌2005年(平成17年)1月1日に施行された。
破産は、一般的には財産をすべて失うことを指す。法的には、債務者がその債務を完済することができない状態、または、そのような状態にある場合に、債権者に対して財産を公平に配分することを目的として行われる手続(破産手続)を指す(広義の破産)。

2009年06月22日

対人地雷全面禁止条約

地雷に対し、人道的な見地から「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」(対人地雷全面禁止条約、オタワ条約などともいう)が作られ、1999年3月1日に発効した。この条約が作られる機運を盛り上げるにあたっては、イギリスのダイアナ元皇太子妃も大きな役割を果たした。

日本は1998年9月30日に、この条約を受諾して締約国となり、2003年2月8日に保有していた対人地雷のうち、訓練用など一部を除いたすべての廃棄を完了した。この式典には小泉純一郎首相(当時)も出席した。

ただ、外国などからの侵略行為に対し日本の長い海岸線を対人地雷なしに(対戦車地雷を高感度で使用する方法もあるが)どのようにして守るかについては自衛隊をはじめ新たな防衛方法が模索されており、かねてより航空自衛隊等が保有しているクラスター爆弾、ないしは新たに開発した対人障害システムを対人地雷の代替とするようであるが、これも極めて限定的な補完にしかならないため、防衛力の空白が懸念されている。 またクラスター爆弾を廃棄する動きも進んでいる。

さらには米中露といった大量配備/輸出国が批准していない現状では条約は象徴的で限定的な意味しかもっていない。むしろ先進国の撤去対策が施された対人地雷地雷が廃棄され、紛争国が求める安価な地雷が野放しになるという皮肉な事態を招いている

戦乱のあった地域では、対人地雷が残存し、戦争終結後も一般市民への事故(傷害事故だけではなく死亡事故も多い)が後をたたない。しかし戦後の復興には安全な土地の保証がかかせない。その地域の国家が地雷除去の能力に不足する場合など、他国の部隊や非政府組織NGOが対人地雷除去を人道援助として行うことがある。
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地雷の除去方法は未だに効率が悪く、地雷一個の除去に、その地雷の作成費の100倍は費用がかかるといわれている。また危険を伴う人力作業が一般的である。しかし紛争の傷跡が残る国では失業率が高い事が多く地雷除去作業は雇用対策としての側面もある。世界的に地雷の問題が注目を集める中で、危険な人力による除去方法の代替となり得る機械を用いた除去方法が世界各国で研究されているが、貧しい国は機械を購入したり運用する負担に見合わないと考える事が多く援助以外での普及は進んでいない。他の地雷除去方法として、2007年5月に発見された地雷などに使われるTNT火薬にわずかに含まれる化学物質に反応し、緑色に光る酵母を用いる地雷検出方法が現在研究中で、酵母の散布によって地雷を速やかに探知できるのではないかと期待されている。

2009年06月05日

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を祖先とする斯波氏の一族。

斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。

室町時代には、足利氏の流れを汲む奥州管領(後に奥州探題)としてその権威と勢威は奥羽両国に及び、一族の最上氏に出羽一国を分掌させ、羽州探題として支配を確立した。伊達氏・南部氏・葛西氏などの奥州の有力国人は、大崎氏を主君として敬い、参勤することを義務づけられていたと『余目氏旧記』に記されている。

しかし、奥州管領職を巡る吉良氏、畠山氏さらには石塔氏、石橋氏との抗争、北畠氏をはじめとする根強い南朝方の抵抗などで、実質支配できたのは大崎地方と陸奥国府周辺だけであった。

その後、幕府と鎌倉府の対立と和解に巻き込まれ、奥羽の管轄が一時期鎌倉府になる。奥州管領は廃止され、大崎氏も他の有力国人と鎌倉府への参勤を勤めさせられる。再び幕府と鎌倉府が対立すると大崎氏は幕府と結んで鎌倉公方に対する謀反を謀るが露見して当主大崎詮持は殺害された。応永7年(1400年)には大崎詮持は奥州探題に任命されるが、京都扶持衆として幕府と直接結んだ伊達氏、蘆名氏など有力国人が各郡で守護並に強い権限を持っていたことから、その支配は非常に弱かった。そのため、大崎氏も大崎地方に割拠する一有力国人へと転落する。
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さらに、戦国時代に入るとその権威と勢威を大きく失墜し、葛西氏などとの抗争もあって次第に衰退してゆく。そして第11代当主・大崎義直のときには家臣の古川氏などが反旗を翻す。この頃になると、もはや家臣団を統制する力すら失い、伊達稙宗の援助のもと、ようやく家臣団の反乱を鎮圧することはできたが、このために大崎氏と伊達氏の関係は完全に逆転し、実質的には伊達氏の服属下に置かれた。

そして義直の子・大崎義隆のときに分家筋にあたる出羽の最上義光の支援のもと、伊達氏から独立を目指して抗争を開始する。天正16年(1588年)に大崎義隆と伊達政宗との間で行われた大崎合戦では義隆は勝利したが、天正17年(1589年)に蘆名氏が滅び、政宗が名実共に奥州の覇者となると、政宗の圧迫を受けて、伊達氏に臣従した。

そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に義隆は参陣しなかったため、所領を没収され改易され、大崎氏は滅亡した。その後、大崎氏遺臣による葛西・大崎一揆が起こったが、家名再興は遂に果たされることなく終わった。

2009年05月02日

生態学

生態学(せいたいがく、英:ecology)とは、生物と環境の間の相互作用を扱う学問分野である。

生物は環境に影響を与え、環境は生物に影響を与える。生態学研究の主要な関心は、生物個体の分布や数に、そしてこれらがいかに環境に影響されるかにある。ここでの「環境」とは、気候や地質など非生物的な環境と生物的環境を含んでいる。わかりやすく言い換えるならば、生物界における"歴史学"が進化論なら、"経済学"にあたるのが生態学である。

なお、生物群の名前を付けて「○○の生態」という場合、その生物に関する生態学的特徴を意味する場合もあるが、単に「生きた姿」の意味で使われる場合もある
非常に頻繁になされる定義、とくに人類生態学で用いられる定義では、以下の三角関係についての研究が生態学とされている。

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種内の個体間の関係 --- 例: 1匹のウサギは他のウサギとどのように関係しているか。繁殖率が高ければ、ウサギの個体数は増加する。
種の組織的な活動 --- 例: ウサギの食物消費量の増加が環境に与える影響はどのようなものだろうか。食物を大量に消費すれば、結果として食物不足が起こり、個体群が維持できなくなるだろう。
これらの活動の環境 --- 例: ウサギにとっての環境の変化の結果、ウサギたちは上に述べた状況により死に絶えてしまう。従って、環境はこの活動の(すなわち、ウサギの生存の)生産物であると同時に、この活動を取り巻く状況でもある。
ecology(生態学、エコロジー)という語は、誰がその語を用いているかによって意味するところが異なる。多くの科学者にとって、ecologyは基本的な生物科学に属しており、生物個体やそれ以上の生物の集団、およびその環境を研究対象とする。

たとえば、いわゆる生物濃縮の現象は、生態学の理論によってのみ説明が可能な現象である。

科学者でない多くの人にとって「エコロジー」は科学の一分野ではなく、何よりもまず人間およびその活動から自然と環境を保護することであるが、これは人間対自然という二項対立の見地によるものである。

必ずしも一般的ではないが、生態学を科学としての生物学以上のものとする見方もある。その考えによると、生態学とは、自分たち以外の生物と調和して存在し、また我々を取り巻く他の生物群を単なる物として利用すべきではなく、むしろより大きな一貫したシステムに属するそれぞれの要員ととらえ、ひとつの組織であると考える、ある種の世界観である。

2009年04月18日

士大夫(したいふ)

士大夫(したいふ)とは、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。

『春秋左氏伝』に拠ると、周代の身分制度は王や各諸侯の下に大夫と呼ばれる貴族階級があり、その家臣として士と呼ばれる階級があった。彼らは都市国家の指導者階級であったが、都市国家の連合体制が崩壊して領域国家が形成されて来た戦国時代になると、この階級が崩れ、士は独自の能力を持って領域国家を支配する各諸侯に仕える人々を指すようになる。

これが、前漢の統治体制が確立すると、地方において強い経済力を持って人民を保護民化していった者たちが、郷挙里選の制度下で子弟を中央官僚として送り出すようになり、支配階級を形成する。彼らは自らを周代の都市国家指導者層に擬えて「士大夫」と呼ぶようになる。後世からは「豪族」と呼ばれる階級である。

魏において九品官人法が制定され、魏晋南北朝時代には豪族は漢以来の血統と文化的実績、人民保護者としての名望を背景に、華北に浸透した北方遊牧民の有力族長層と共に、より名門意識を高めて後世貴族と呼ばれる階級に変わって行くことになるが、自らは変わらず、「士」「士大夫」と呼んでいた。貴族階級は、自分たちの地位を保全するために、貴族階級から外れた者たちを「庶」と呼び、激しく差別して排除していた。

その後の隋から科挙が実施されるようになり、貴族でなくても官僚となる道が開かれたが、貴族階級は科挙出身者を政権中枢の座から締め出した。しかし、唐中期頃から経済の発展と共に新興地主層が台頭し、彼らは子弟から科挙及第者を出すことで新たな支配階級を形成し始める。貴族階級はこの台頭に激しく反発し、牛李の党争となって現れる。

唐末期の戦乱の中で貴族階級は衰え、唐にとって変わって後梁を開いた塩賊に出自する朱全忠の軍閥によって、実質的に亡んだ。その後の五代の戦乱の中で権力を握っていた者は、塩賊や北方遊牧民(北朝以来の名門部族ではなく、より新興の勢力)に出自する軍閥の軍人が大半であったが、彼らの軍事警察力の下で実質的に政務を取り仕切っていた者は、馮道に代表されるような新興地主階級の文人であった。これが、後の北宋の士大夫の形成に至る。

先憂後楽・陞官発財
北宋を樹立した趙匡胤(太祖)は、五代の武断主義の反省から科挙を大幅に強化し、文治政策を定めた。それまで一回につき十人ほどであった科挙及第者が、太祖時代に数百人まで増やされ、これら科挙官僚は三代真宗期から実質的に朝廷を主導し始める。
チップ ドミナ シェルパ トースター ダフる日本 ぶんたん シンクロ ドラバ ミスジャ スフレ デネブ バラン フレスコ ドンマイ モロヘイヤ ハンド リムパック バルナ ジュンブ 有明の月 リバランス リフィル 聖護院 ハイカ デフレー スライム 宵月の宴 アシスト パイオニア ハルビ トータル パード サラダ サーチ恋道 チェリ エイトビー ミルト ユーティ ランド ディー ゲーセン 世界の窓 スト チアナ タントラ スタンス 宝船 ヘアー ブルドッ フリーサ

科挙は学識のみが問題とされる試験であるが、難度は非常に高く、及第するためには長年試験科目(四書五経など)の填め込み)にのみ集中できる環境と、それなりの財産が必要とされた。この事から、主に先述の地主階級が科挙及第者を輩出する結果になる。

士大夫が士大夫と呼ばれる所以は、一に学識である。科挙官僚であることが基本であるが、科挙に何度も落第した者は、郷里にて一族の子弟などに教授して、科挙の及第を目指させたりすることが多かった。また、官界を去った者も、郷里にて同じようなことをした。彼らも士大夫の中に入れられるので、必ずしも科挙官僚に限ったことではなく、科挙を目標として学識を身に着けたということが、条件の第一と考えられる。

二に財産と地方での指導的立場である。財産と官僚としての特権などを背景に、士大夫階級は地方官僚に対して口出しをすることがあり、先述の科挙落第者などは郷里の子供たちに学問を教えることがあった。宮崎市定は、士大夫を「官僚・地主・商人の三位一体」と定義している。

彼ら士大夫は、自らの学識を持って出仕したという自負心からか、唐代以前に比べて自らの力を持って国家を支えるという気概を持っていた。そのことを表す有名な語として、范仲淹の「先憂後楽」がある。范仲淹は後世に士大夫の理想像として仰がれた人物であり、この語の意味は「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみの後に楽しむ」と言う天下国家を自らが背負うと言う意気込みが表れた語である(後に後楽園の名称の元となった)。宋四代仁宗期には、范仲淹を初めとして数々の名臣と呼ばれるものが登場し、政界で活躍した。その様は、朱熹によって『宋名臣言行録』に綴られている。

また、士大夫は文人でもあり、宋代に士大夫たちが作った新しい文化の流れが多数生まれている。文学においては、欧陽脩らの古文復興運動に表れる。古文運動とは六朝時代以来の四六駢儷体と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の質実剛健な文章への復帰を目指す運動である。漢詩においては、それまで多かった抒情詩から、叙事詩が中心になったことが挙げられる。これらは士大夫たちの、より主体的でより理性的であるべしと言う考えから生まれたと考えられる。思想・学問においては、士大夫のための新しい儒学の姿が模索され、様々な学派が形成された。その中でより実践的な道学も誕生し、士大夫が現実の世界で求められる像を求めて窮理が進められた。後に、道学は朱熹によって大成された朱子学によって代表されるようになる。

しかし、その一方で「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。三年地方官を勤めれば、賄賂などで十万両くらいは貯めることができることを意味する。また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた。

では、「先憂後楽」と「陞官発財」、どちらが士大夫の実態であったのであろうか。これはどちらも士大夫の実態であり、どちらかを過剰に強調して士大夫を捉えようとすることは慎まねばならないと考えられる。朱熹は浙東提挙を勤めていた際に、知台州唐仲友に対して公金横領や商人と組んでの汚職などといったことで弾劾し、その後慶元偽学の禁の際に朱熹自身に対して恣意的に裁判を行ったり、公金横領を行ったと弾劾された。後者は後に朱熹を尊崇する人によって真っ赤な偽であると断定されたが、実際にはどうであったか?これらの朱熹と唐仲友に対する非難はおそらく当時の士大夫層一般に通ずることであり、このような所が士大夫の実像であったのではなかろうか。

士大夫のその後
その後、宋から王朝が移り変わっていったが、元を除いて士大夫が政権の中枢を担ったことには変わりない。明から清にかけて、士大夫が新たに郷紳という階級を形成し始める。郷紳は、基本的には士大夫と同じであるが、より地方での権力者としての意味合いが強調された語である。郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国時代にも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。